最近の心境変化※鬱注意
最近思ったことがある。
私が思ってたより死というのは身近なものだ。
生まれた時から両親不仲でモラハラ父の抑圧の元に生活してきた私にとって、精神不安定はある意味デフォルトだ。
普通じゃないのは理解していてもそれが日常だったから、社会に出てから周りの人との感覚の違いに苦労している。
そんな中でも死にたいと思ったことは1度もなかった。
そんなことを考えるのは普通に怖いし、痛いのも苦しいのもイヤだし、死んだら終わりだ。
楽しいことだってある。
だからそんなの限界の限界を超えて助けも何もなくなった最終手段の遠い話だと思ってた。
何かの記事で鬱病の人の死への認識を読んだことがある。
「何かあって死にたいと思うんじゃない。日常の中、何でもない瞬間にフッと死のうかなって思うんです。今日の夕食なんにしようかな〜くらいの感覚で。」
みたいに言っていた。
今までその感覚は分からなかったけど、最近なんとなくわかるようになった。
死より辛いものがある。
鬱々として嫌われるのが怖くて自ら周りと離れ、それでも誰からも連絡が来ない気にしてもらえない孤独感。
今まで自分なりに変わろうと頑張ってきた。
でもいくら頑張っても、当然ながら私と周りは違う。
自分の生い立ちを差し引いても、自分と同じなんてない。
人は人付き合いを小さい頃から親兄弟、学校の友人関係などから学ぶ。
でも親から愛を充分もらえず、兄弟仲も悪く、友人関係まで制限されていた私はそれを学べなかった。
だから人間関係で適切な距離を測れない。
壁のある気を使う友人関係か、壁を取り払った近すぎて鬱陶しがられる関係か。
その繰り返し。
両極端なのは自覚してても、ちょうどいい具合が分からない。
いい大人に誰も親身に教えてはくれない。
どこが悪いのかも分からないまま離れていくだけ。
自分なりに考えて、考えすぎてまた失敗するのループ。
親しくなってから離れていかれるのは本当に辛い。
だから自分からはもう声をかけられない。そんな勇気も気力もない。
明け透けに言えば「とにかく人に気にしてほしい。相手から関わってほしい」のだ。
独りよがりなかんがえだけど、それが本心。
だから何でも許して舐められたりもする。
恋愛ではそんな相手ばっかり。
家庭環境に問題があるとダメンズに捕まりやすいという。
まさにお手本のようだ。うんざり。
恋人なんかよりも、生涯の親友のような心を開ける相手が欲しい。
親の支配から逃れた代わりに失ったのは、慣れ親しんだ地元。
地元から離れた地で親しい友人は未だできない。
仕事の同僚はみんないい人だし仲良く話すけど、仕事から離れたらほぼ関わらない。
友人ではない。
地元の友人はいるけど、前述したように本音を話せる親友のような相手はいない。
連絡も年に数回あるかないか程度。
寂しい。とにかく話し相手がほしい。
仲良く話せる相手がほしい。
人との繋がりが薄い、人に興味を持たれないことは死ぬより辛いのだと知った。
死んだら終わりだと思ってたけど、死ねば終われる。
この悩み苦しみから解放されて楽になれるのだと。
一瞬でもそう思った自分にゾッとした。
だからまだ大丈夫だ。
私はまだ生きたいと思えてる。
今は色々あって疲れ切ってるだけで、人が好きな気持ちも変わらない。
生まれた時から耐えることに慣れた身は伊達じゃない。
苦しみも大きいけど、その苦しみをも耐えて乗り越えてきたタフさもあるのだ。
私のモットーは『人が好き。人に優しく』
それが自己肯定感の低い私の唯一の芯みたいなもの。
半分本心、半分は自分への言い聞かせ。
歪んだ不安定な私だから、せめて優しさを持っていたい。
同じく辛い思いをしている人がいたら話を聞いてあげたい。
少しでも楽になるように。
寂しがりだから人と繋がっていたい。
それ以上に離れられたくない。
傷ついても人を信じたい。
愛に飢えていて上手く愛せない私が、自分の人間愛まで捨てたら本当に終わりだと思うから。
私は映画の主人公にはなれない。
上手くできなくても、受け身だと言われても、弱いと言われても、全てを諦めていても、人を好いて優しさを忘れなければいつか自分を引き上げてくれる人が現れると希望を持っている。
レッドにとってのアンディのように。
『ショーシャンクの空に』より